「いつも正しくありたい」は本当に正しいのか?
企業で働く女性たちと話をしていると、仕事の話はもちろん、大半が「働くオンナとしての在り方」の話題になっていく。
人としての器の大きさみたいな話とか、いろんな価値観を受け入れ、考え方の幅を広げる話とかをしているうちにあっという間に時間が経っている。
以前もそんな女子トーク(?)の中で、ある女性から「時間を守らない人、周りの迷惑を考えず自分勝手に行動する人、予想外の出来事でスケジュール通りに動けないことが何よりも許せない」と若干興奮気味に話されたことがあった。
彼女のこの考えには腹の底から同調しただろう、数年前までのわたしならば。
10分以上前には必ず準備を整えて到着していること、自分の言動が周囲に及ぼす影響を考えて配慮すること、想定外の出来事までもできる限り想定内に入れた上で、その分の余裕も含めてスケジュールを段取ることなどが、わたしの「仕事の哲学」であり、プライベートもまた同じであったから。
今でもその哲学は変わらない部分もある。
ただし以前と唯一違うのは、それを自分にも人にも求める頻度が減ったことだ。「そうなれない時もある、そうじゃない人もいる」と、思えるようになった、というか。
わたしは「招かれた客」ではなかったの?
30代に差し掛かった頃、職場で知り合った同い年の親友が、彼女のお客様(Aさん)の家にわたしを招待してくれた時の話。
確かあんこうの美味しい季節で、急遽当日参加することになった別のお客様(Bさん)が、あんこうのどぶ汁を振舞ってくださった記憶がある。
楽しい時間が過ぎ、そろそろカラオケに行くのかな?と予想していた。訪問の予定を決めたとき、「Aさんはカラオケが大好きな方だから一緒に行けるといいよね」と親友がわたしに話していたからだ。
ところがお酒が入った親友は、ここらでひと眠りしたいとでも感じたのか、「日帰り温泉でも行ってのんびりしたい」と言い出し、Bさんと一緒にさっさと段取りを組み、ふたりでAさん宅を出て行ってしまった。
初対面のわたしとAさんだけが家に取り残され、わたしは正直、親友に腹が立った。
「呼んでおいてそれはないよ」と。
わたしはAさんをカラオケにお誘いし、二人きりで2時間ほど歌ってその日はお別れした。家に帰り、その件についていくら思い巡らしてみても、なぜ親友はわたしとAさんを置いていったのだろう?何か理由があったのか?それとも本当に気まぐれの行動だったのか?考えれば考えるほどわからなくなった。
ひどい仕打ちの本当の意味
数日が経ち、忘れかけていた頃に、ふと一つの考えがよぎった。
そういえばAさんはBさんのことをあまりよく思っていなかったんだな…と。当日、予定になかったBさんが一緒に来ることになり、親友はきっといろいろ思い巡らし、気を配っていたに違いない。
これ以上一緒に時間を過ごせば雰囲気が悪くなるだろうと判断した親友は、あえて自分勝手に振舞うことでAさんにもBさんにも配慮をしたのかもしれない。本当は「Aさんを任せたよ」とわたしに言いたかったのではないだろうか?と。
後日親友にそのことを確認し「あの時はごめんね〜」と親友から言われた瞬間、腹を立てた自分が情けなくなったのはすごい覚えてる。わたしはなんと小さいんだろう。
事前に立てたスケジュール通りに動くことだけがいい結果になるとは限らない。周囲を振り回す突発的な行動に思えることが、実は別の側面で見た時に「最大限の気配り」になっていることもあるのだ、と親友に教えられたような気がしてね。
自分の価値観に囚われすぎたり、それを基に周囲を批判するのではなく「(何かあるのかもしれない)ま、いっか」と言えるぐらいになりたいと心から思えた出来事で、当時のわたしに強烈なインパクトを残していた。
正しくあることだけを自分にも他人にも課さない
そんな苦い経験を思い出しながら、冒頭の彼女に「わたしは、”ま、いっか”って思うようにしているんですよ」と伝えました。器の大きな人間になりたいんだ、とアドバイスとも指摘ともつかない曖昧な言葉を発してしまったおかげで、彼女は「う〜ん、難しい」と考え込んでしまった…ちょっと失敗。
ただ「いつも正しい人」でいようとすることが人を苦しめることもある。ましてやそれを人に求めれば、逆に配慮に欠け、自分も周りも傷つくこともあるのだ。
自分を成長させる上で「完璧を目指す」ことが必要な時と、「ま、いっか」と受け入れ、許す時のバランスが必要ではないでしょうかね。